三品和広さん

「企業など、所詮は生まれて一世紀半しかたっていない未熟な社会制度に過ぎない。

それを大きく変えて進化させる次の一手が日本から出てくるかどうか、見守りたい。」
(三品和広、「02110718付け、日経『セミナール―企業を考える』より)

このシリーズは昨日、18日で連載が終わりました。
なかなか読み応えのある記事でした。
上の言葉はその最後の最後の結語です。

それに先立つ部分で、三品さんはこう書いています。
「たとえば、人事部を廃止して社員に仕事を選ばせる。
社員が集まらない仕事は魅力がない証しなのでやめてしまう。
他方、社員間で取り合いになる仕事は最大の利益貢献を約束する社員に割り振っていく。
約束を果たせなかった社員については、企業に対して『借金』を記録し、将来の稼ぎから返済してもらう。
同じように、給与は企業より受け取るものから、借りるものに変えてしまい、社員は稼ぎの中から返していく。
逆に『預金』できた社員は好きなときに現金化する。
ITを生かせば、社員と企業の貸し借り関係を管理するくらいたやすい。」

なかなか優れた「構想力」です。
さすが三品さん、たいしたものです。

連載、お読みになれましたか?
是非、ご一読を!

熱烈歓迎

「私たち全員が学ぶべきことは、
変化を恐れないことだけではなく、
変化を熱烈に歓迎することであり、
しかも、おそらくさらに重要なのが、
変化を促進、推進することです。」
(トニー・シェイ、「ザッポス」より)

What we all need to learn is
not only not to be afraid of changing,
but also to passionately welcome to changing.
Besides, it is more important
to advance and promote changing.

成長とは<良い方向への変化>です。
成長したいか?と問われればYESと答える人の全員が、
変化したいか?という問いにYESと答えるわけではありません。
「成長はしたい、でも変化はしたくない」
でも、<ソウハトンヤガオロサナイ>のです。

よいはすばらしいの敵である

よいはすばらしいの敵である。
(トニー・シェイ、「ザッポス」より)

Good is an enemy of great.

ほどほどのものを求めていては、ほどほど未満のものにしか到達できません。

例えば、お客があなたの提供するものを、「おもしろいね」と言ってくれたとする。
それはおそらく「断り文句」です。
「共感しました」などという反応も「自分ではやってみたいとは思いません」という意味です。

相手から引き出す反応が、関心→感心→感銘→感動まで行って、初めて人は動くのです。
相手に「関心」があるかないか、ではなくて、自分が相手に「感動」を作り出せたかどうか。
それが真の問題なのです。

「よい」くらいでは感動は生まれません。
「すばらしい」と言わせなければ。
そのためにも自分自身が「よい」以上の「すばらしい」体験を求める人になっていることが必要ですね。

福翁自伝

「時は何時でもかまわぬ、ほとんど昼夜の区別はない、

日が暮れたからといって寝ようとも思わずしきりに書を読んでいる。
読書にくたびれ眠くなれば、机の上に突っ伏して寝るか、あるいは床の間の床ふちを枕にして寝るかついぞ本当に布団を敷いて夜具をかけて枕をして寝るなどということはただの一度もしたことがない。
『なるほど枕がないはずだ、これまで枕をして寝たことがなかったのだから』とその時初めて気がつきました。」
(福沢諭吉、「福翁自伝」より)

福沢諭吉が緒方洪庵の塾で蘭学を学んでいた時の勉強振りを描いた文章の一節です。
高熱がでていよいよ寝なければならなくなって、枕を探したらない。
どうして枕がないのだろうと思ったら、枕などして布団で寝るなどということをついぞしたことがなかったことに初めて気がついたといっているわけです。

若き福沢とその仲間たちの汗の匂いが漂ってくるような文章ですね。
「福翁自伝」、面白くて、ためになるいい本です。
角川ソフィア文庫から出ています。
お勧めです。

胡散臭さ

「真理をさがし求めている人を信じなさい;
でも、真理をすでに知っているという人がいたら、

疑ってかからねばなりません。」
(アンドレ・ジッド)

Believe those who are seeking the truth;
doubt those who have found it.

アンドレ・ジッドなどという名は最近ついぞ聞きませんね。
今の若い人は読むんだろうか?
そもそも名前知ってる?

「狭き門」とか、「一粒の麦死なずば」など、聖書の中のイエスの言葉をタイトルにした本も多い作家です。
ノーベル賞もとった大家だけど、彼の著作はカトリックでは「禁書」扱いを受けたりもしています。
 

上の言葉、コンサルタントなどという仕事をしている者として、自分のしていることのある種の「胡散臭さ」を自覚しておく必要性を感じさせるものとなっています。
自覚した上で、「野暮を承知で」踏み込んでいく、それがプロというものなんですけど。

ドアマンになりたい

「ザッカーマンがティーンエージャーだったころ、

スクールカウンセラーが彼にこう尋ねた。
『何にでもなれるとしたら、何になりたい?』
彼は答えた。
『ドアマンになりたい。
だれかのためにドアを開けるのが好きだし、喜んでもらえると僕も嬉しいから』」
(レイチャル・ボッツマン他、「シェア」より)
後に、ザッカーマンは地元住民に日曜大工のツールを貸し出す「サンタローザズ・ツールライブラリ」を開設。
最初は自宅の物置で手持ちの15種類の工具を貸し出すことから始めます。
引退した自動車整備工がツール一式を寄付してくれた時がターニング・ポイントになりました。
今では数百のツールをそろえるまでになって、週中でも毎日5人がここに工具を借りにやってくる。
週末には15人になる、とのこと。
確かに、「だれかのためにドアを開け、喜んでもらう」仕事についたわけですね。

人生は何もしないには長すぎるが、 何かをするには短すぎる

「人生は何もしないには長すぎるが、
何かをするには短すぎる。」
(詠み人知らず)

Life is too long to do nothing;
life is too short to do something.

だからこう続けるべきでしょう。

We need to make the own goal, because life is so long.
But the goal must not be a stupid one, because life is so short.

人には各々自分自身ゴール(目標)というもが必要だ。
人生は長いだから。
しかし、そゴールはくだらないもであってはならない。
人生は短いだから。

人は自分が変えようとしているシステムの一部である

「人は自分が変えようとしているシステムの一部である。
自分を変えようとしないことによって、人はかえってそのシステムを強化してしまう。」

(フランシス・ウェシトリー他、「誰が世界を変えるのか」より)
Anyone is a part of a system that he wants to change.
It reinforces the system that he does nothing to change himself.

変革を志すものは「自分が変革されるべきシステムの一部である」ことをまず認識していなければなりません。
そのように、「他責性」(人のせいにすること)から免れた人だけが本当の変化をもたらすことができます。

「他責性」→「自責性」
「他人事」→「自分事」

そうした認識がある人は、システム改革のためにはまず自己変革が必要だということを知っています。
そして、そのように自己変革を遂げた人には他の人もついてきます。
それがシステム全体の変化に繋がるのです。

逆に自分を変えようとしない人は、そのことによって結局、既存のシステムを強化してしまいます。
自分を変えない→システムの「自分という一部」が変わらない→システムが変わらない→システムの変わらなさを強化してしまう。

ですから、組織の変革リーダーはまず、自分自身の成長リーダーでなければなりません。
それを私はこういう公式で表現しています。

自分を動かす→他者を動かす→組織を動かす
自分自身の成長リーダー→他者へのサーバント・リーダー→組織の変革リーダー

怖ろしいこと

命がいつか終わってしまうことを怖れてはならない;
それがいつまでも始まらないことを怖れよ。
(グレース・ハンセン)

Don’t be afraid your life will end;
be afraid that it will never begin.

人は自分死について考えることを好みません。
考えることがおそろしいからです。
でも、本当におそろしいは、「本当に生きる」ということを最後まで経験することなく、人生が終わってしまうこと方です。

そうした経験をするどころか、「本当に生きるとはどういうことか」という問いにさえ出会うことないままに命が終わることも稀ではない。
それは本当におそろしいことです。

「困ったことがあったらな、 風に向かって、俺の名前を呼べ」

「困ったことがあったらな、
風に向かって、俺の名前を呼べ」
(車寅次郎、「『男はつらいよ』第43作、寅次郎の休日」より)

“If you have a trouble, call my name to the wind, OK?”

これは寅次郎が甥の満に対して言う台詞です。
叔父と甥という関係はなかなか興味深い。
甥にとって、叔父=親の兄弟という存在は親の権威を相対化する契機として機能します。

叔父の前では父も母も、兄弟=子供になるからです。

叔父と父・母との会話を聞いたり、また叔父と直接に会話したりすることを通して、甥(姪)は父や母にも子供時代があり、父や母もまた祖父や祖父母にとっての子として育ったということを知ります。
そういう認知は大変貴重です。

また、叔父(叔母も)の方でも、自分の子供にとっての親という権威とは違う次元の影響を甥や姪に与える独特なポジションにいるということを自覚しています。
彼(彼女)は、甥(姪)に対して、父(母)性=親性=権威性とは違う次元での大人性=成熟性を、時々のそしてしばしの遭遇の中で現前させねばならない。
これはなかなかのアクロバシーを要請する難題です。

その点、寅さんはよくそれを果たしていたと言えるでしょう。
アッパレ!

人は夫になったり、妻になったり、父になったり、母になったりすることを成長の契機にできますが、叔父になったり、叔母になったりすることをもってそうすることもできるのです。
そういうことが面白い。
ライフサイクルってよくできてますね。