リービ英雄
アメリカの大学の日本学の教授であることを辞めて、「日本語で書く」作家になることを選んだリービさんが、「なぜ日本語で書くか」を語っています。
 「17歳の頃、誰かの下宿にいって朝まで話しこんだことがある。
10人の内、ぼく一人だけが日本人ではなかった。
 話は1,2割しか理解できなかったが、黙って聞いていた。
 下宿の六畳間の空気の中で、言葉が形となって飛び交っているのが見えるような気がした。
 教科書の言葉ではなくて、感情の伴った言葉だった。
これはなんだろうと好奇心以上のものに衝き動かされた。…
これを自分のものにしたいという思いにかられた。」
その「衝き動かされ」や「思いにかられた」その「かられ」方がいかに大きなものだったかは、続く文によって明らかになります。
「それからは、喋れるようになるまでじっと日本語に耳を傾け、書けるようになるまでひたすら日本語を読んだ。」
すばらしい!
リービさんが日本語ネイティブに求めること、それは次のようなことです。
 「日本人として生まれた人でも、日本語を書くためには、一度「外国人」にならなければだめなのだ。
 『当たり前な日本語』の『外』に立って、自分の言葉に異邦人として対する意識をもたなければよい作品は生まれない。
 (中略)
 日本では、そういった普遍的な問題が、文字を通して、他の国よりもはっきりと浮かび上がっているのではないか。
 地球レベルで表現することの重要性。
その一つのモデルを、この鎖国の歴史を持った島国が提供するようになっているのではないだろうか。」
私の「グローバル研修」の課題図書は次の3冊でしたが、今後はこの本も加えていきたいと思います。
 「日本辺境論」内田樹
 「世界で生きる力」マーヅ・ガーゾン
「世界のグロービッシュ」ジャン・ポール・ネリエール
「牛乳の未来」
  実家の父が、北海道、中標津の北根室ランチウェイを歩いてみたいと言い出しました。 
  旭川の「斉藤牧場」の斉藤晶さん、足寄の「ありがとう牧場」の吉川友二さん、そして中標津の「三友牧場」の三友盛行さん、他にも岩手の「中洞牧場」の中洞さん(毎週ここのミルクを買っています)など、放牧で乳牛を飼う酪農家の仕事ぶりがルポされている本です。  特に、「蹄耕法」という、放牧した牛に山を拓かせる、一種の自然農法→自然酪農を実践する、「山地酪農」の(今や)カリスマ、斉藤さんの生き方に感嘆。  「ンでもある日、『こんなごといつまでも引きずっていたら、こんな証拠残しておごうなんて考えたら自分がダメになる』って思ったんですよ。 そして、行政からも、農協からも、組合からも距離を置いて、「蹄耕法」に行き着く。  斉藤さんよりはずっと若い世代に属する三友さんの実践、そして思想もすばらしい。 そんな三友さんが米作に関してこういうことを言っています。  秀逸なのは次のような議論が続いていることです。
そしたら、「あれ?、以前にここいら辺について何かで読んだ気がする」ということになって、実家の本棚をひっくり返して取り出してきました。
2004年に刊行された本で、そのときにすぐ読んだのですが、それから約10年、ここに書かれていたこと、ここで読んだ(はずの)ことは、ボディブローのように私に(私の考えや感じ方に)ずいぶんと効いていたのだと感じました。
 一緒に入植した開拓団が解散になったとき、只一人独身だったため、その時点で土地の割り当てさえなく、それまで本部職員としてさんざんタダ働きしてきた斉藤さんにも、頭割りで借金が押し付けられてしまう。
 斉藤さんは4年間の出納簿を持っていたから、いざとなったらそれを証拠にことの不当性を訴えられるはずだった。
そのとき彼が考えたこと、そして行ったこと。
 『だったらそんなものゼロにしてしまえ」って、皆に黙って、預かっていた帳簿を皆焼いてしまったんです。
 私は仲間より一回り若いんだから、何とかなるだろうって思ったんです。
そうして、『これからは頼れるのは自分だけだ』と。
そうゆうどごに自分を追い込んだんですよ。」
その様は、「奇跡のりんご」の木村秋則さんを彷彿とさせます。
 彼の酪農は「マイペース酪農」として知られています。
 借金ズケで頭数を増やし、その世話に忙殺されて、牛も自分も家族も不幸、なんていう酪農地獄からの解脱は決して難しくない。
 頭数を減らせばいいのだ。
その分、乳量は減るけれど、その分、かかるお金も、かけなければならない労力も減る。
 収入は決して減らない、むしろ増える。
 仕事は楽しく、牛は健康で、土地も美しい・・・。
 減反ゼロ、全面積作付け、但し、面積当りの収量を減らす。
 面積当りの収量が半分になれば、全面積作付けしても、50%減反したのと同じ。
 収量を減らしていいとなれば、「水田の力、応分の収量」になる。
 「牛乳と同じで、たくさんというのはあれ美味しくないってことだから、養殖と同じ。
で、美味しくて安心で安全になるの、結果として、収量落とせば。」
 「で、そのときに『じゃあ採算が合うかどうか』、これ別な議論だから。
 農業論議するときに、価格の問題と品質の問題を一時切り離してあげないとね、これリンクして話するとね、もうこたこたになっちゃう。
で、日本人の仕事だと話の展開の悪いところは、その手段と目的を一緒にしちゃうから、こたこたになって進まないのね。
で、『何を大切にするか』って。
 『これ大事にしよう』って。
その次に、『手段をどういうふうにするか』って。
で、手段はあのいろんな知恵だとか方法論で解決できる。」
 「で、『マイペース』だとか『三友さん』っていうのが世間から注目される不幸っていうのがある。
こんなのは所詮路傍の石と同じで、うん、当たり前になればね、当たり前になっていることは、日本が成熟化していくことよね。」
浅川智恵子さん
<分からないを方法化する>
<桜は散らない>
東京の桜が昨日がピークだったんだそうですね。
今日からは徐々に「花吹雪モード」になっていくんでしょう。
それもまた一興ですね。
さて、この時期になるといつも思い出すことがあります。
実は<桜は散らない>ということです。
<桜は散らない>、雨にも風にも負けない(宮沢賢治みたいだ)。
桜は、桜花は、それを愛でる私たちの都合で咲いているのではありません。
桜は桜の都合で桜花を咲かせているのです。
桜が桜花を咲かせる都合とは、それによって虫を集めて受粉を手伝わせる、というものです。
では、めでたく受粉が済んだら、桜はどうするか?
そのとき桜は桜花を<落とす>のです。
桜は<散る>のではない、桜はその用を終えたときに花びらを自ら<落とす>。
両親が住む実家の庭に落葉広葉樹が生えています。
落葉広葉樹ですから、秋になると紅葉し、そして冬になると落葉します。
庭には落ち葉のじゅうたんが敷かれ、枝は裸になって天を指します。
ある年に、その樹の枝が一本、秋口の台風で折れて落ちてしまいました。
いまだ紅葉していない青い葉をつけたままにです。
その枝の葉は、地面に落ちて、時がたっても紅葉しない。
枝から離れて散ることもない。
それは枝についたまま、緑のままに色あせて、ただ朽ちていった。
落葉広葉樹の紅葉と落葉もまた、「散る」プロセスではなく、樹が自ら「落とす」プロセスだ分かりました。
「散る」プロセスは「死ぬプロセス」です。
「落とす」プロセスは「生きる」プロセスです。
桜に戻せばこういうことでしょう。
桜は<潔く散っている>のではない、計画的に、意図的に花を落とすことによって<しぶとく行き続けている>のだ。
人が生きるということも、企業が生きるということも同じだと思います。
ドラッカーはこう言っていましたね。
「イノベーション戦略の一歩は、古いもの、死につつあるもの、陳腐化したものを計画的かつ体系的に捨てることである。
昨日を捨ててこそ、資源、特に人材という貴重な資源を新しいもののために解放できる。」
(P・ドラッカー、「マネジメント」より)
再見!
Modern Meeting
  私も仕事で<会議コンサル>をします。  次の台詞が一番気に入りました。  日本のホワイトカラーは自分のタスクに対するオーナーシップを持っていません。  私が<会議コンサル>をするとき、いつも言うことは次のことです。  「会議っていう日本語を英語になおすとMeeting.
 だからピタンパリさんは同業者ということになります。
 「会議は、フットボール中継を永久に中断させるように思えるTVコマーシャルではなく、むしろ、デイトナ500のときの、自動車レースのピットのようでなければならない。」
 オーナーシップないタスクについてピタンパリさんのいうモダン・ミーティングを主宰することは原理的に不可能です。
 ですから、ここに書かれていることを日本の企業に制度的に導入することは極めて困難だと思います。
 とはいえ、「自分が主宰する会議」をローカルにモダン・ニーティングに変えていくことは可能でしょう。
 そういう志のある人には有効な提案に富んでいます。
 このMeetって動詞には<出会う>という意味もあるんだ。
 会議をするなら、<出会い>を創造するような会議にしなくっちゃね!」
「機械との競争」
テクノロジーが雇用を奪うという現象は今に始まったことではありません。 とはいえ、結果的には両者は常にある種の均衡点に達した。  ではどうすればいいか?  Plan2:コンピュータと「共闘」すること。  私にとっては、「覇者の未来」(デビッド・C・モシュラ著、1997年)がテクノロジーを文明論レベルで読み解く際の出発点となった本でした。  そろそろ自分が生きている時代についてのパースペクティブを更新する時期が来ているのかもしれません。  エリック&アンドリュー、Thank you!
両者は常に「競争」してきた。
ラッダイト運動(イギリスで19世紀初頭に起きた、機械破壊運動)は有名ですね。
 しかし、コンピュータライゼーションはあまりに「早すぎ」て、破壊を「創造的破壊」に転じることが今までになく難しくなっている。
 そのことをとても分かりやすく論じています。
 Plan1:コンピュータが苦手なことが得意な人材になる
 コンピュータが苦手なのは、創造的であることと肉体労働(ここで「肉体労働」が出てきたところにキョを突かれました)。
 逆にコンピュータが得意なのは「規則に従うこと」。
 だから「規則」=手順の学習に長けている人は「機械との競争」に決して勝てない(なるほど!)。
 「機械と競争」しないで、それを使って一緒に闘う。
 コンピュータがチェスで名人を破ったということはよく知られています。
 しかし、その後、チェスで一番強いのは、人間でもコンピュータでもなく、コンピュータを使ってプレイする人間。
 つまり人間とコンピュータのチームが一番強い。
 今ではそうなっていることはあまり知られていない(ウン、知らなかった)。
 「覇者の未来」が「未来」と呼んでいたのは、「2010年までの未来」でした。
 まさしく、♪あの頃の未来に僕らは住んでいる♪わけです。
 いい刺激になりました。
「SEの持つべき思想」
「SEの持つべき思想」(秋月昭彦・爪生聖著)を読了。 この春、久々にSIの会社の新人研修に出講するので、「お勉強」の一貫で読みました。  アジャイル開発関する記述にもびっくり。  最終章は普遍的な意味での「成長論」としても秀逸です。
ツンドク状態が10年、やっと読めました。
10年前の本ですが、ぜんぜん古くなっていない。
 つまり、SEが抱える問題はいっこうに解決されていないということですね。
 業界的には最近やっと一般的になってきた手法です。
 しかも説明が根源的で、単なる開発手法としてだけでなく、コミュニケーション論としても読める。
 もっと早く読んでおけばよかった。
「これだけPDCA!」
今年も新人研修を受注したので、最近売れているこの分野の本のチェックをしておこうとおもって・・・。 なぜPDCAは回らないのか、という問いに、川原さんは「そもそもP(=計画)が計画になっていないからだ」と言います。  私は、常々こう言っていきました。  私の場合は、欲望→ゴール→計画→実践。  <欲望→目的→ゴール→計画→PDCA>  PDCAに終わりはない。  お勧めです。
これがなかなかいい!
多くの計画が「偽の計画」になってしまっている。
 「本物の計画」とはその上位に、目標があり、そのまた上位に目的がある。
 目的と目標と計画の区別のないところに、本当の計画はない。
 そういう類のことを言っておられます。
 全くその通りでしょうね。
 「欲望とゴールと計画と実践を垂直統合しなければならない」
 ちょっと似ている(ちょっと違うけど)。
 川原さんは、目的→目標→計画→PDCA。
 合体させればこうなります。
 それは成長に終わりがないから。
 組織の成長のためには組織の基礎力の向上が必要。
 基礎力とは「当たり前にできることのレベル」のこと。
 その「当たり前にできることのレベル」が上がっていくことこそが<成長>である。
 といったことが結論。
 これも全くその通りですね。