(みなみらんぼう)
Because there is a home to come back.
「訓練と行動を尊ぶ心は、実は、大きな現実への信頼があってはじめてできることである。
Heartfelt respect for training and action only comes from conviction
that “something logical” and “something right” should exist in the world.
中井さんの名文です。
以下、こう続きます。
「これは大変なことなのである。
自分の肉体を信じ、この世界を信じ、歴史を信じ、人類全体を信じることなのである。
「レントゲンだって、やっぱりね
ニッコリ笑って写した方がいいと思うの
だって明るくとれるものその方が」
(車寅次郎、「男はつらいよ」第32作、「口笛を吹く寅次郎」より)
Even when you take an X-ray, I think, it’s better to smile.
Because you can get a brighter picture.
目的があって、機能があって、冗長性があって、循環的に作ってあるとシステムは持続可能性を獲得します。
というわけで、人生を持続可能なものとするために、次回のレントゲンの時にはニッコリ笑ってみましょう。
「やってみせ、言って聞かせてさせてみて、 ほめてやらねば、人は動かじ」
(山本五十六)
この言葉も日本人は大好きですね。
でも、これだけ「人口に膾炙」され続けてもなかなかそのとおりうまくやれる人がいないということは
のどちらかだということになるでしょう。
まずはAの可能性を探ってみたいですね。
名言の含意するところを深堀するための一つの方法は外国語に翻訳してみるということです。
英語でも中国語でもフランス語でもなんでもいいんですが、まあ昨今なら英語ということになります。
友人の訳です。
1)
How to incite a person to act:
(1) Show an example.
(2) Explain.
(3) Let him do it, and
(4) Commend.
2)
If you want to incite a person to act,
show an example, explain, let him do it, and commend.
サイト上にはこういうのもあったそうです。
なにか発見はありましたか?
「私は失敗していない。
これではうまくいかないという発見を1万回したのだ。」
(トマス・エジソン)
“I have not failed.
I’ve just found 10,000 ways
that won’t work.”
(Thomas Alva Edison)
エジソンの言葉の中で一番有名な台詞ですね。
こういうのを「人口に膾炙する」(ジンコウニカイシャスル)と言います。
「人口」は人々の口、そのままですね。
「膾炙」は、「膾」(なます)と「炙」(あぶり=あぶり肉)。
なますとあぶり肉は味が良くて、みんな大好きという意味だそうです。
中国の古詩にあるらしい。
今日は国語の勉強でした。
マネジメントに必要なのは「軽み」と「真摯さ」の統合だと言いました。
それはマネジメントの中身がこんなふうに変わってきているからです。
①結果管理→②予実管理→③プロセス管理→④プロセス支援→⑤内面化支援
結果からプロセスへ
管理から支援へ
アサインから内面化へ
というトレンドを読み取るべきでしょう。
特にこの「内面化支援」という段階への対応が企業の組織体としての生死を分ける。
そんな予感がしています。
Be Tough!
Fight!
早川です。
仕事を通じて幸福になるために仕事を通じて成長する=大人になる。
産業人として大人になるためにはちゃんとした「勤労観」が必要。
そこまできました。
「勤労観」をもつこと、もとうとすることには二つの罠が存在すると思います。
そのひとつは、答えが出るまで「働くことに手をつけない」、もしくは答えが出ないから「働くことをやめる」というもの。
もうひとつは、問いを持たずに、もしくは持つことを否定して「つべこべ言わずに働く」だけに終始するというもの。
社会全体が貧しいうちは大半の勤労者は後者に属し、社会に一定の財が行き渡り、あくせく働く必要がなくなると前者が増えます。
しかし、世の中が不景気になって食えなくなるとまた後者が増す。
こうした循環が長期循環、中期循環、短期循環の中で繰り返されているように見えます。
日本に例をとれば、近年のリテンション問題(新人の1/3が3年以内に会社を辞める)は前者の傾向がもたらしたものであり、08年末以来のリセッションは後者のトレンドを昂進させるでしょう。
しかし、仕事を通して成長し、大人になろうとする者にとってはどちらも罠になります。
「自分はなぜ働くのか?」という問いは「人はなぜ働くのか?」というメタレベルの問いを掘り下げるための補助線としては有効です。
前者の問いによって後者の問いは具体性と切実性を増すでしょう。
しかし、「自分はなぜ働くのか?」という問いが「自分は何かしたいのか?」、「自分にあった仕事は何か?」という自己実現系の問いに回収されてしまったら、問いが窒息してしまう。
幸いにもその問いに答えが見出せたとしましょう。
その場合でもその到達点は単なる自己実現でしかありません。
あなたが自己実現してもそれはあなたにとっての自己実現に過ぎない。
そしてそれだけでは人は幸福にはなれないようにできている。
不幸にもその問いに答えが見出せない場合はどうでしょう。
その結果もプロセスも「問いの深まりが成長そのものである」というようなリアリティをあなたにもたらすことはない。
つまりあなたは幸福になれない。
自己実現をGoalにしようとする思考は概してこういう隘路に私たちを誘導し、そして不活性化させてしまいます。
一方、「つべこべ言わずに働く」だけでも人は仕事を通して成長し、幸せになるという道筋から離れてしまいます。
人間はどうしても「つべこべ言う」。
それが封じられているだけでも不幸です。
仕事をすること、勤労、労働に関する悩みや葛藤を、自分自身の利害(自己実現を含む)を超えたパブリックな問いへと高めていく。
それが「働き方」という実践によってさらに鍛えられ行く過程、そこに仕事を通して成長し、幸福になるための契機が潜んでいる。
それに情況論的言っても、つべこべいわずにできる、単なる機械的勤勉さが必要とされるような内容の労働は、機械化されるか、労賃の低い海外に持っていかれるか、国内でもそのつど時価調達されるものになってしまっているのではありませんか。
労働市場のありようもまた、次なる葛藤へと我々を導いているのです。
Love & Work!
プノンペンは今、雨季です。毎晩雨が降りますが、今年はさほどの豪雨がなく、助かっています。なにせ、本気で降られると、町中が海になってしまい、身動きが取れなくなりますから。
カンボジアの人は、タイ人より気性が荒く、人々の活動量、運動量も豊富です。マーケットでの客の奪い合いの光景など、なかなか凄まじいものがありま す。タイのバンコクなどではありえない光景。目先の競争では負けまいとするのですが、それが生産性に反映されないところがご愛嬌で、その点でもタイ人に負 けている印象があります。
世界中を廻って、ずっと「人はなぜ働くのか?」ということについて考えています。「なぜ働かねばならないのか?」ではありません。「なぜ働くの か?」=「なぜ働いてしまうのか?」です。人の本性のなかにビルドインされている「働く」という傾向の本質を知りたい。それがわかれば我々はもっと「良く 働く」ことができる。なぜなら、その「なぜ」を充たす仕方で「働く」ことが「良く働く」ことに違いないからです。
ここでいう「良く働く」とはより勤勉に働くとか、生産性を上げるとかいうことを意味しているのではありません。「良く働く」の「良い」は、良い世 界、良い家族、良い会社、良い人、良い親、良い牛乳、良いとんかつ、良い・・・、一般における「良さ」に適うという意味での「良い」です。これについて は、『働き方における<良さ>-<良く>働くと言うこと』で論じましたね(注1)。
で、「なぜ人は働くのか?」。まず、「働く」ということには四つの機能があると考えます。第一は生産、第二が成長、第三が保護です。第四については ひとまずブラックボックスということにさせていただき、第一から第三について論じます。まず、「生産」について。人が働くのは第一に、何かを生み出す、作 り出すためです。これが「生産」ですね。乏しければ乏しいほどそのための<必要>は大きいはずですが、今日では「生産」欲求を起動させているのは<必要> ではなくて、<欲望>です。空腹感は生物学的な欲求ですから、食べないことによって生じます。しかし、食欲は文化的欲望ですから、食べたことのないものに 対しては生じません。同じように「生産」欲求を起動させる<欲望>も見たことのないものについては生じませんから、それを外から見せる=刺激することが必 要になります。だから、<必要>が大きいはずの貧困国、最貧国よりも、<欲望>が大きい先進国の方が「生産」欲求が高いのです。
次に「成長」について。人はよく「働きがい」といったことを問題にしますが、<必要>なものを生産するといった第一の機能によって十分に欲求が起動 されていれば、働くことに「甲斐」もへったくれもない。しかし、「生産」するか否か、何を生産するか、どのように生産するかといったことに関して、選択の 余地が生まれてくると、人は「働きがい」を求めるようになる。昨今、<ES>(従業員満足度)といったことが問題にされ、「働きやすさから働きがいへ」と いったトレンドについて語られるようになりました(注2)。この「働きがい」の中核にあるものが「成長」実感です。仕事を通じて、産業人として、あわよく ば人間的にも成長したい。人はそのような欲求にもまた動かされて「働く」のです。ですから、「良く働く」ことには「働くことによって成長するという仕方で 働く」ということが含まれます。
第三に、人は「働く」ことによって「保護」されます。これはつまり「小人閑居為不善」(人閑居して不全を為すという)ということです。たいていの人 は、閑にしているとろくなことはしない。失業率の増加が犯罪率の増加に繋がる。だから失業対策は経済対策であるだけでなく、刑事政策でもある、といったよ うなことと同じ文脈です。愚かなことに巻き込まれないようにするためには「働く」ことに精を出すのが一番だということを昔の人は良く知っていたというわけ でしょう。
では、第四のものは何か?それは、ここカンボジア、プノンペンに来て、毎日カンボジア人を眺めていて発見したものです。彼らは生産機能との関係で働 く<必要>を大いに有していますが、<欲望>は目先のことに向いている(客の奪い合いで目の前のあいつに負けたくないというような欲望)ので、「生産」そ のものに向けた<欲望>は小さい。「成長」欲求も、「保護」(社会的自己保全)欲求だってさして大きくない。そういう彼らは何に起動されて=なぜ「働い て」いるのか?それは「時間を充たすため」です。
人は一日24時間を何かをして「過す」という必要をもっています。食べる、寝るという必要があって、それを充たすために何かを生産する=稼ぐ。その 稼ぐ作業によって、一日が、時間が費やされ、過されていく。稼ぐこと、それによって必要が充たされることと、それらによって時間が充ちることとが一体化し ている生活はある意味、幸福です。そこにはある種の完結性と簡潔性がある。
カンボジアでは、稼いでも稼がなくても、食べること、寝ることの量と質に大きな差が生じるわけではありません。働いたからといって先進国のような暮 らしが出来るわけではなく、働かないからといって餓えて死んでしまうわけではない。乱暴な言い方をすれば、その差は先進国の人間から見れば「誤差」程度の ものに見えます。それでも運動量という観点からみれば彼らは結構がつがつと働いている。それはなぜか?それは何もしないことに耐えられないから、一人でい ることに耐えられないからです。それは第三の「保護機能」=社会的自己保存欲求に似ていますが、それより積極的で根源的で深いものだと思います。
プノンペンでよく見かける光景を素描してみましょう。車を運転していていると、幹線通りから一つ入ったくらいの道で、若者(子供?)が車に向って、 「こっちへ来い、ここに停めろ」と手招きするのによく出会います。たいていは、レストランか床屋の客引きです。こういった駐車場係は町のいたるところにい て、どこかに車を停めようとすると、どこからともなくやってきて、車を誘導し(大きなお世話何だけど)、車のドアを開けてくれます(これも大きなお世 話)。で、帰りにも同じことをして、ちょっとしたチップをもらう(大体1000リエル=25セント=30円くらい)。
もちろん、それはチップを稼ぐための労働には違いないのでけれど、でも彼らの働きぶりは、それだけではない、なにかの「喜び」や「やりがい」といっ た感覚を発散させもいます。それはたいした仕事ではない。床屋の店先で車の呼び込みをする。それは床屋の本体が生産している付加価値と比較すれば非本質的 で些細なものでしかありません。実際、床屋の主人が彼に何がしかの報酬を払っているようには思えない。客からもらうチップだってタカが知れています。それ でも、そこを自分のショバ(場所)にできていること、そこを任されているという自覚がある種の「やりがい」の自覚を生んでいるのでしょう。
毎日そこに通ってきて、仲間と会い、彼らと一緒に時を過す。そのためにその場の有力者からの信任を得、それを維持しなければならない。そのために一 生懸命働く。それは日本に昔あった丁稚システムのさらにプリミティブな形態と言えるかもしれません。昔といったってそんなに昔じゃありません。私の父が祖 父の家業を手伝うようになる直前まで、店員は丁稚で、「**ドン」と呼ばれていたのですから。丁稚さんは、「家でブラブラさせていてもナンだから」とツテ をたどって預けられるといった仕方で都会にやってきました。そこでも彼らにとっての仕事とは「皆と一緒に何かする」(そうやって時を過ごす)こと自体を目 的としたその「何か」だったのです。
そして今、日本では「ネットカフェ難民」のことが問題にされていますが、もし、ネットカフェがなかったら、「難民」は何もしないこと、一人きりでい ることに耐えられないでしょう。だからかれらはネットカフェに滞留するのです。ネットやネットカフェがない環境であれば、人は何かを誰かと一緒にすると いった仕方でしか時を過ごすことが出来ません。そしてそのためにもとりあえず「働く」のです。
であってみれば、つまり「働く」ということにこのような第四の意味があるとすれば、「良く働く」ことはこの第四の意味にもよく応えねばならないこと になります。どのように?「働く」ことを通して、友を作り、その友と助け合うことを通して、充実した時を過すという仕方によってです。「仕事」の本質には 「時の過し方」という一面がある。「時」を物(お金)に換える。これが生産。「時」を使って自分の価値を上げる。これが成長。「時」を空費しないことで、 不善から逃れる。これが保護(社会的自己保全)。そして、人(他人)とともに「時」を過すことそれ自体によって創造しうるもの。それは信頼、信用、友情。
幸い、先進国では、労働が、仕事が、働くことが、こうした四つの機能、意味を総合的にかつ自覚的に充たせるようになりつつある。そのような仕事を巡 る社会的、歴史的、文明論的環境が整いつつあるのではないか。そのような環境=仕事の社会的プラットフォームのことをWork2.0と呼びたい。どのよう な変化、情況がその名にふさわしいか、それについてはまた次回。
再見!
注2:「人材教育」2007年6月号特集「働きがいとESを重視する組織作り」
プノンペンは雨季に入り、夕方以降の外出がままならなくなりました。水が道に溢れ、車が動かなくなってしまう恐れがあるからです。
さて、私は昭和30年生まれ(不作の29年度組みで、55年体制の申し子)で、TVも洗濯機も冷蔵庫も物心ついてから、家に入ってきて後に爆発的に 普及した、そういう世代にあたります。長じて 95年にコンサルタントとして独立しましたが、ちょうどその年にWin95が発表され、以後、PCの普及やシステムのオープン化、そのネットワーク化、 WWWの登場とインターネットの普及、そして社会全体の情報化、ネットワーク化、経済全体のグローバル化、フラット化、労働市場の流動化・・・といった新 製品、新技術、新潮流の発生と流行を体験し、目撃し、観察し、批評し・・・てきました。どうも世代的にそういうめぐりあわせみたいなんです。
インターネットが普及し始めたころ、ある研究会でこういう発言をしたことがあります。
「日本ではこれまで汎用品というものは普及したためしがなかった。料理用具を見てもすき焼きにはすき焼きなべがあり、ジャブシャブにはそれようのな べがあり、湯豆腐には湯豆腐用のなべがあり・・・、といった具合。PCというのは文化的背景の下では稀有な存在。そこで、こういう問いが発生する。
<PCって何ができるの?>
その答えのひとつが<インターネット>ができる。つまりPCがインターネットという通信システムの端末になろうとしているということ。固定電話シス テムの端末のような端末でしかない端末ではなくて、 CPUを持った端末がPCであり、端末がCPUを持つということがインターネットのネットワーク型の通信システムとしての特徴。そこで今度は次の問いが生 じる。
<インターネットって何ができるの?>
それにどう答えるか?云々・・・。」
その問いに対する答えは以後、さまざまな形で変遷してきました。最初はHPを<見る>ものだったインターネットが、B2CあるいはB2Bのビジネス インフラとして<使う>ものとなり、さらに SNSのようなコミュニケーションツールのためのインフラとなっています。以前は端末としてのPCを含む物的なシステムとしてのインターネットがインフラ として存在し、それをプラットフォームとしてメディアとしてのインターネットがあり、その上にコンテンツやアプリケーションおかれているという感じだった ものが、今ではインターネットとその上に存在するアプリケーションが、技術的・物的側面が不可視化されたサービスとなり、ユーザはインターネットのユーザ ではなく、そうしたサービスのユーザとなっています。
インフラ>プラットフォーム>メディア>アプリケーションといった論理的階層構造やその物的実体が不可視化され、その全体がサービス・プラット フォーム化して、ユーザがその全体をサービスとして利用するという段階においては、その乗りこなしのための利用技術の洗練が求められるようになります。 ちょうど私より少し若い世代にとってはTVの存在そのものは所与のものであり、その利用技術が幼いころから身体化されていたように、今後ビジネスシーンに 順次登場することになるインターネット・ネイティブの世代(生まれたときからPCが家にあって、インターネットに接続されていた世代)にとっては、イン ターネットの存在は所与のものであり、ネットワーク上での振る舞いは第二の自然として身体化されてい ます。そうしたインターネットの使われ方の次元が進化した様は、昨今Web2.0といったタームで示唆されつつあります。
同じことが「働く」ということに関しても起きているのではないか?そのことを問うためにWork2.0というタームを造語してみました。では「働く」ことはどのように2.0化しているのか?いよいよ本題ですが、それはまた次回。
再見!
早川@プノンペンです。こちらは雨季に差し掛かり、暑さに加えて湿度も上がってきました。外に 1-2時間いるだけで熱中症になります。いったん、これにかかると 2-3 日は頭がズキズキしてうまくまわりません。困ったものです。
さて、前回は<ナセバナルナサネバナラヌナニゴトモ>を端緒に、自力と自己生成(自己組織化)の関係について論じるところまできました。この先回の出口の議論について、ちょっと付言します。
自己生成=自己組織化とは複雑系の分野でよく使われる言葉です。複雑系は「鳥の群れはどのように編隊を形成するのか」と いったことを説明しようとします。他の例を挙げましょう。タイには同期をとって明滅する蛍がいるんだそうです(見てみたい!)。では、蛍はどうやって同期 をとっているのか(不思議だ!)?鳥の場合のことも、蛍の場合のことも、結論的にはよく分からないだそうですが(だから複雑系なんてエクスキューズを織り 込んだ名前になっているのかもしれません)、一羽の鳥、一匹の蛍が群れ全体に命令してそうなっているわけではないということは想像がつきます。むしろその 群れ全体の個々の構成要素の<局所的相互作用が全体的構造を生む>ということがおきているらしい・・・、ここまでは分かっている。 *1)
<局所的相互作用が全体的構造を生む>って台詞、いいでしょう。是非、みんなではやらせましょう。 07年の流行語大賞は<局所的相互作用が全体的構造を生む>です、なんてことになったら、日本の民度は相当上がったとみなしていいはずです(ムリか)。
この局所的相互作用の起点となる運動をおこすことが、為すこと・自力の問題で、それが全体的構造を生むということが、成る・自己生成(自己組織化)の問題です。経営学の分野では、前者がリーダーシップ論へ、後者が企業文化・風土論へと繋がっていきます。
ここまでは前回の出口部分の付言。で、今回は<成らせるためには、何をどうすればいいのか>ということについて考えたいと思います。<為すことについての WHATとHOW>ですね。そして、まず考えたいのは、<WHATとHOWはどちらが大事か?>ということです。
産業人として我々はほとんどが企業人であり、企業人はおのずと組織人です。組織人たるもの、<為す>べきことは、ほとん どの場合、外部(組織)から与えられます。個々人にとって、仕事とは所与のものであり、与件です。ですから、「仕事に主体的に取り組め!」なんて台詞は実 に欺瞞的なものです。仕事に関する主体性論への疑問、これを出発点として、我々は当事者性論へとすすまねばなりませなりません。
仕事に関して主体性を云々することは欺瞞的ですが、それでも個々の仕事に対して我々は<当事者性>を持つことはできる。 主体ではないが、当事者ではある。そのように私は常々論じてきました。*2) そもそも「生きる」という事態自体が<主体的>に始まったのではなくて、他律的に始まりました(頼んで生んでもらった人はいない)。それでも私たちは自分 自身の生を<当事者>として生きています。仕事というアプリケーションは人生というプラットフォームの上に乗っています。プラットフォームとアプリケー ションは構造的に同型でないといけませんね。
しかし、<主体性>と<当事者性>をこのように区別することの実践的意味はどこにあるのでしょうか?<主体性より当事者 性>という態度は、仕事においては「何をするか」より「どのようにするか」の方を重視する態度へと繋がります。< What よりHow>の方が大事。たとえば、マザー・テレサの行き方に感動した人が彼女のように生きたいと思ったとき、倣うべきは彼女の愛(HOW)であって、必 ずしも看護婦になったり、発展途上国に行ったりすること(WHAT)ではないはずです。
『<プロとは、その仕事を自分の成長機会としている人このとである>
他人(ひと)にできないことができることも、他人よりも上手くできることも、必要ない。そんなこといったら、プロなんて ホンの少しの一握りの人だけになってしまう。ちょうど、プロの野球選手の、そのまた大リーグの選手の、そのまた一握りのスター選手がトップ・プロと言われ る、そのトップ・プロだけがプロであるというようなプロ観ではないプロ観、それを大切にしたい。どんな分野の、どんなクラスのスタッフでも、自分がその仕 事を自分の成長機会を獲得する場であると思い定めてそれに取り組む限り、その人はその仕事のプロである。そう思います。
で、そういうプロはお互いを励まし合う。なぜなら、それぞれは仕事を自分の成長機会としようとしているのであって、他人 (ひと)との競争機会としようとしているのではないからです。そして、自分の成長(ゼロサムな<競争>における成長ではなく、プラスサムな<競走>におけ る成長)実感は結局、他人(ひと)といかに助け合えたかによってもたらされるものだからです。』
*1) 「複雑な世界、単純な法則」-ネットワーク科学の最前線 (マーク・ブキャナン著、草思社)
*2)本ブログ:2005 年10 月15日 <「自発性と当事者性」または「自発から自律へ」>をご覧ください。